日奉一族について
概要
日奉(Isanagi)家は正倉1及び蒐集院において神格存在2の封じ込めの任を担っていた一族です。通称は「日奉一族」「日奉一門」など。神格の研究を主任務とすると同時に、神格の封じ込め及び破壊に使用する呪具/術式の開発機関でもありました。任務実行部隊としての側面を有し、日奉家の人間のみで構成された対神格用の戦力を保有していました。また、優れた認知抵抗値3を持つ人間を多く輩出する特異な血族でもあり、一部は神格のミーム汚染を完全に跳ね除けることが可能だったとされています。
蒐集院においては七哲4の直轄の一門であり、その他の機関からの干渉を受けにくい立場にありました。蒐集院には神格を含む非実体存在への対応を専門とする部門が存在しましたが、日奉家はこれとは独立しており、当該部門からの批判や抵抗を受け付けないという特徴を持ちました。日奉家が組織的にやや切り離された位置に置かれていたのは、神格による情報災害5の事故を最小規模に抑えるためでもありました。
日奉家の主任務は、七哲の直轄に置かれていたあらゆる組織のそれと同様に重要機密として扱われました。そのため、傑出した妖術師/研儀官の一門として日奉の名を知る者はいても、その実態について知る者は決して多くはありませんでした。
日奉家は古くから神格研究機関として機能し、また不明な理由で記録されることを避けていたため、残されている史料は少なく6、未だに不明瞭な点が多いとされています。十分な確度の情報は、蒐集院が発足した明治時代以降のものに限られます。
起源
日奉家の起源は不明ですが、正倉の記録で平安時代後期には既に神格研究機関として活動していたことが確認されており、現存しているとするならば1000年以上の歴史を持ちます。
発狂と不慮の死が付き物とされる神格研究機関が、これほどの長きに渡って活動を続けていたことは、奇跡と言えます。
構造
日奉家は複数の分家(流派)からなり、一門の秩序は宗家である「木流(木流家とも)」を中心に維持されてきました。神格の研究/封じ込め/管理は宗家によって主宰され、幾つかの有力な流派がそれらの補助を担任していました。一族の中には神格研究には参加せず、雑務のみを粛々と行う流派なども存在しました。
日奉家は生物学的な血の繋がりを重んじ、非血縁者を日奉の人間として受け入れることは基本的にありませんでした。
日奉家の規模は代々血族同士の婚約によって拡大されました。日奉家の人間が家長の許可無く外部のものと交わることは「日奉の血を穢す」として固く禁じられた行為であり、破った者は厳しく罰せられました。日奉家が近親婚に拘っていたのは、その血筋に由来する認知抵抗値の性能を保つという意図があったためです。兄弟姉妹婚、親子婚なども認められており、それらの実例を示す記録も確認されています。日奉家に奇矯な性格を有する者が多くいたことは、この近親婚を繰り返してきた影響だとも考えられています。
近親婚の風習自体は、血筋に有用な性質を持つ一族にとってはありきたりなもので、蒐集院もこれを認めていました。とはいえ、日奉家の血の質を守るその傾向は、その他のそういった一族と比しても極めて徹底したものだったと言われています。
目的
日奉家は蒐集院に本籍を置く一族の1つでしたが、あらゆる記録を参照すると、日奉家の目的は正常性維持ではなく、神格の研究か無力化にあったように見受けられます。日奉家の蒐集院への数々の貢献は、神格研究に必要な地位を保守するためのものであり、忠誠意識に起因するものではないとされています。
日奉家が神格に拘る理由ついては古くから不明瞭であったため、当時の蒐集院内では「ヒトの神格化を目論んでいる」「神喰に手を出している」などの噂が実しやかに囁かれていたようです。その真偽のほどは不明ですが、彼らが「神格の性質の完全理解と、その全ての破壊」「神格の信奉者の殲滅」の実現に執着していたことは確かであるとされています。
やり方と考え方
日奉家は──これは七哲直轄の組織にはありふれたことでしたが──結果として蒐集院の理念に貢献するものであれば、あらゆる非道徳的な行いが許可されていました。元々、日奉家は神格の研究や破壊のためであれば手段を選ばない傾向があり、外部の人間はおろか、血族である日奉の人間さえも合意の上で犠牲にすることが多々ありました。
日奉家の神格研究の成果は、世襲によって排他的且つ独占的に継承されました。神格の封じ込めに有用な技術や情報の一部はその他の機関と消極的ながらも共有していましたが、神格の性質に深く関わる資料を外部に公開することはほぼありませんでした。これは、神格による情報災害の蔓延を防ぐためのやむをえない措置でもありました7。
日奉家では全ての血族は「一族への忠誠」を義務とし、一族の意向に逆らう者は度し難い異端として扱われました。日奉家には負荷の大きい肉体改造(後述)や、危険度の高い主任務など、離反の誘因が多分にあったにも関わらず、実際の離反者は驚くほどに少なかったと言われています。この一族全体の忠誠意識の高さは、日奉家の特徴の1つとしてよく挙げられます。これに関し財団の超常史学部門は、閉塞環境での洗脳的教育の結果であると結論付けていますが、次のように分析する関係者も存在します。
──彼らは家長の意向には必ず従いました。一族への献身が何よりの誉れと言わんばかりに。私には彼らのその態度が恐怖による圧制や、妖術による洗脳に依るものとは思えませんでした。彼らはまるで神に挑む運命、思想に縛られているようでした。だから私はこう論じたのであります。「日奉の血は呪われている」。
- 研儀官 ████
日奉家は神格によるミーム災害への対応も担任していましたが、汚染範囲の拡大を抑えるためにミーム感染者は即座に殺す方針をとっていました。蒐集院の記録により、日奉家はミーム感染者の虐殺行為を多く主導していたことが明らかになっていますが、これらの虐殺行為は彼らの徹底思考からしばしばやり過ぎることがあり、それを問題視する七哲もいたようです。
日奉家は一般的に言うところの神の信奉者が「認知抵抗値が低いために神格のミーム汚染に暴露した特異性罹災者」であることを古くから知っていました。その見地を得て、彼らの多くは信奉者を頭を汚された不浄のものとして認識し、信仰心は病気や呪いと変わらない災害のひとつであるといった考え方を持ちました。
──神への信仰は不治の疫病である。故に信奉者は殺さねばならない。首を断ち、病巣たる頭を燃せ。
- 日奉七竈(後述)から[編集済]に書かれた指示書
このような端的な考え方を持つ彼らは、神格及び神格的存在を信奉する団体とは常に敵対的でした。
日奉姓
「日奉」の姓は正倉帰属時期に下賜された崇名8に由来しています。この崇名の意味は現在でもはっきりしておらず、イサは結/和の意で、ナギは神木及び神籬である榊/梛/南木を表す語とする説、巫(かんなぎ)または神和(かむなぎ)の語からという説、伊邪那岐神と何らかの関係があったという説、など諸説ありますが定説はありません。「いさなぎ」の読みに「日奉」の字が宛てられている理由は、「日奉」が元々の家名の一部だったからという説、西党(日奉党)または日祀部と深い縁があったからという説などがありますが、いずれも推測の域を出ません。
第二次世界大戦終戦後に宗家を含むほとんどの家系は失踪(後述)したため、現在「日奉」を今日的な意味の姓として名乗る例は多くありません。
彼らは公に日奉と名乗ることを避け、よく「平坂」という偽名を用いていました。
樹木崇拝と名付けの習慣
日奉家は樹木崇拝の宗教的観念を有し、植物と対神格的諸力との関連性を信じていました。彼らの拠点である日奉邸9の周囲には、多くの高木が植えられていました。この樹木崇拝とその崇名から、高木と深い関わりを持つ高皇産霊尊及びそれを祖神とする日奉(Himatsuri)氏との関係性が疑われましたが、今のところそれらを裏付ける史料は発見されていません。この樹木崇拝については、日奉家が古くから神格の封じ込めに樹木を用いていたことが切欠と考えられています。
この樹木崇拝からか、日奉家の血族には植物に関連した名前を付けることが定められていました。この習慣には家系ごとに更に細かな決まりが設けられており、例えば宗家では、優れた認知抵抗値を持つ者には喬木の名、そうでない者には灌木の名を付けるといった決まりがありました。これは宗家が木流と呼ばれる所以でもあります。
この名付けの習慣には、名前によってどの家系の生まれであるかを示す意図がありました。この風習がいつ頃から始まったものなのかは分かっていませんが、平安時代初期の系字の文化が変化したものではないかと考えられています。
この習慣のため、彼らの名前は一般的な感性からやや逸脱したものがほとんどでした。
日奉の妖術師
日奉家から輩出された妖術師はその他のそれと区別され、口語的に「日奉の妖術師」と呼ばれていました。いずれも神格の封じ込めに有用な魔術の使い手であり、多くの神格蒐集任務において前線に配置されていました。彼らは神格及び非実体存在に対しては無類の対応力を発揮しましたが、その他のアノマリーに対しては平凡な妖術師よりも無力だったとも言われています。また、神格の持つ情報災害的脅威への対応のため、彼らは魔術を用いた情報操作、特に情報/記憶の抹消の技術に秀でていました。
日奉の妖術師たちは巫術式(後述)の速やかな実行のため、自身の身体に複数の肉体改造を施していました。それは隠秘学と医学の連携によって行われるもので、健康にも美容にも大きな負担が掛かるものでしたが、彼らはその恩恵によって神格蒐集任務を効率的に遂行することができました。正常なヒトの容貌から逸脱した彼らのそれは、日奉家の権謀術数主義的なやり方の象徴でした。
彼らは肉体改造により、以下のような特徴を有していました。なお、肉体改造の内容はその者の役割によって異なり、全員が同じ特徴を持っていたわけではありません。
巨躯: 妖術師が何らかの効果を得るために、隠秘学における有力な図形/記号/紋章/線形を身体に直接刻むことはよくありましたが、日奉の妖術師らはより多くのそれらを刻むため、肉体を大きく改造していました。
認知能力: 非実体存在という本来認識できないものに対応する彼らは、感覚器(特に目)の改造に重きを置いていました。改造の結果として目立ちすぎる素顔を持っていた彼らは、お面や布でそれを隠していました。また彼らは同様の目的で、DMT10などの認知増強剤を頻繁に摂取していました。
灰色の肌: 奇跡論的攻撃に対する防御には、銀が有効であるとされていました。そのため、彼らの中にはコロイド状銀を摂取し、長い時間をかけて銀の粒子を皮膚に沈着させる者がいました。その肌は灰色に変化(銀皮症)しており、非常に目立ったとされています。
巫術式
日奉家が残した最も特筆すべき業績の1つに、巫術式が挙げられます。巫術式は非実体存在を実体(依代)に強制的に憑依させ、その状態を維持する神降ろしの一方式です。「いさなぎ流神下ろし」「八芒陣(基本的に8人の妖術師を必要とすることから)」とも呼ばれました。巫術式は非実体存在の封じ込め/破壊を可能にする手段として正倉及び蒐集院では重宝されましたが、魔術や呪術などの超常的事象及び術者の優れた認知抵抗値に大きく頼る手段であったため財団での流用は行われていません。
詳細な起源は不明ですが、巫術式は古くから神格及び非実体存在を封じ込める基本の手段として存在しました。多くの文献にて日奉家の祖とされる人物が理論化したものと論じられていますが、いずれも信憑性が保証される記録ではありません。
巫術式はそれ単体では完璧な封じ込め手段とは言えませんでした。巫術式は非実体存在に実体性を与えて封じ込め及び破壊を簡易にするだけものであり、対象の特異性を無力化する効果は無かったからです。そのため、巫術式は対象の特異性に対応する別の術式と併用するのが基本とされていました。
巫術式でいうところの依代には物、生物、土地などあらゆるものが成り得ました11。また、対象となる神格に似通った構造のものを依代に用いることで、巫術式の成功率を上げることができました。神格を憑依させた依代は、研究のためにできるだけ長く保存されましたが、依代の状態の変化によっては神格ごと破壊されることもありました。
強力な高位神格12はヒトの姿をしている例が多いため、ヒトを依代に用いる発想は古くからありました。しかし、ヒトが高位神格を身体に直接取り込むには、極めて優秀な認知抵抗値が要求されることから、後述する「日奉の巫女」を除けば、実行された例はほぼありません。
日奉の巫女
日奉の巫女は、高位神格の依代となる日奉家の人間、またはその役割を指します。日奉家に存在するあらゆる役割の中で、最も過酷なものとされています。「日奉の巫女」は非公式的な呼び方であり、日奉家では単に巫女と呼ばれていました。
日奉の巫女は、日奉家の中でも群を抜いて優れた認知抵抗値を有する者に与えられていた役割です。日奉家ではあらゆる認識災害キャリアを用いて、血族の認知抵抗値を測っていましたが、それらの記録を参照すると、日奉の巫女らは最低でも、財団の最重要機密保護に用いられている致死性ミームの影響をほぼ完全に無効化する程度の認知抵抗値を有していたことが分かります。
日奉の巫女は高位神格の有効な依代に成りうるほぼ唯一の存在であったため、日奉の巫女の適性者を輩出することは、日奉家の重要な責務の1つでした。しかし、適性者の現れ方は一定ではなく、同世代に複数人出たり、何世代にも渡って出なかったこともあったようです。
日奉の巫女は神格を憑依する前に、できるだけ多くの優秀な認知抵抗値を持つ子供を産むことを義務付けられていました。神格を憑依させた状態のヒトが受胎すると、その胎児が超常的影響を受ける危険性があったためです。また、先天的認知抵抗値は長子から末子の順に性能が劣化していく傾向があったため、長子の受胎にはかなり慎重な調整が行われました。日奉の巫女の長子は、古くから次世代の日奉の巫女として期待される存在でした。
巫術式の成功率は対象の神格と依代の構造の相似率によって左右されるため、日奉の巫女は身体的特徴を対象のそれと一致するように作り変えられました。日奉の巫女のほとんどは女性でしたが、対象の神格が男神であった場合は、乳房を切除したり、男性器を付け加えたりしていました。尾や翼など、本来ヒトには無い特徴を対象が有していた場合は、新たにその部位を作ったりしました。日奉家が保有していた先駆的な肉体改造の技術は、この依代の整形を繰り返してきた結果とも考えられています。
日奉の巫女は神格を身体に憑依させた後、それを鎮めるためのあらゆる手順を受けなければなりませんでした。その基本の手順は儀式的なものでした。儀式中は日奉の巫女は神格の抵抗により、頻繁に強烈な頭痛・精神的不良に苦しめられていたとされています。
次によく行われたのは、日奉の巫女に対する暴行や性行為などです。元々非実体存在である神格は、依代の身体を介して体験する肉体的刺激にとても敏感であったため、肉体的苦痛で鬱化させたり、肉体的快楽で堕落させたりすることが可能でした。そのため、日奉の巫女はよく暴行を主体的に受けたり、血族との性行為に取り組んだりしていました。
これらの行いは、対象の神格の抵抗力が落ちぶれるまで繰り返されました。その間に、神格の抵抗力に耐えきれないと判断された巫女は、その神格ごと焼却されました。
また、日奉の巫女が臨終を迎える際は、即身仏の如く生きている間に緩やかにミイラ化させ、なるべく長期間依代として機能するように工夫が施されました。
蒐集院解体時の日奉家
日奉家の人間の多くは蒐集院の解体を平静に受容しましたが、財団に表明された一族の意向は「他組織への加入はせず、神格研究機関として独立する」というものでした。しかし、全ての血族がその意向に従ったわけではなく、一部の家系は超常界隈からの隔絶を望んで一般社会に流入し、ごく少数の人間は外部の超常機関のスカウトに応じました。
今まで秘匿を重んじていた日奉家が、これほどまでに一族の人間の散逸を許したのは、驚愕に値する出来事でした。
日奉家の血族はいずれも超常に関する知識を有していたため、一般社会への復帰を希望した家系は、財団の監視下で生活することが決定していました。当該家系は指定された秘匿保護を犯すことなく模範的態度を維持し続けたため、蒐集院に関わった世代が逝去した後は財団による家系全体への監視は解かれました。現在は超常の知識を持たないその子孫のみが残っています。
独立を宣言した宗家及び流派は、戦後間もなくして「落陽事件」により消息不明となりました。彼らの行方は現在まで分かっていません。
落陽事件
「落陽事件」とは、1945年12月10日に発生した、蒐集院に係わる一連の事件の総称です。口語的には「落日」とも称されます。
落陽事件は、大きく分けて次の三つの事件から成ります。
- 日奉家を含む蒐集院関係者の集団失踪。
- 日永田家の殺害及び書院の焼失。
- 七哲の暗殺。
これらの事件により、蒐集院関係者120名以上が犠牲になったほか、重要なアノマリー群と文献が大量に失われました。落陽事件は、何らかの共謀に基づいて実施されたとの考えが圧倒的に多数派ですが、それを裏付ける痕跡は発見されておらず、未だに事件の真相は明らかになっていません。
事件の背景: 事件の背景には、超常界隈の転換期とも言える、当時の日本の情勢がありました。
1945年5月、日本政府は、財団の戦後の日本国内での公的活動を宣言する「第4090号O5声明("新秩序構築に関するベルリン宣言")」を承認しました。当声明には異常事例調査局(IJAMEA)や蒐集院を含む、日本国内の超常団体の解体、または財団への合併を要求する項目が含まれていました。当声明が日本政府によって承認されたことにより、財団はこれらの組織が保有していた施設・資産の処分を監督する正式な権利を得ました。
第二次世界大戦終結後、当声明に基づいて、各超常団体の解体実施に当たる秘匿機関「ヨランダ委員会」が設立されました。委員会は、世界オカルト連合(GOC)の前身である連合国オカルトイニシアチブ(AOI)の妨害を受け、作業に遅延を発生させつつも、同年12月上旬ごろに本格的な活動を開始しました。
蒐集院の解体は、委員会の監督の下、蒐集院が自主的に行うという形で進められました。蒐集院内部では、これらの動きに反発する派閥、いわゆる「嫌財団派」が少なからず存在し、各地で示威行為を起こしていました。それらのほとんどは、騒擾には発展しない小規模なものでした。
蒐集院関係者の集団失踪: 1945年12月10日の午後5時頃、多くの蒐集院関係者が消息不明になっていることが発覚しました。
落陽事件における失踪者の一覧
日奉家: 日奉家の失踪が確認されたのは、事件当日の17時頃です。失踪したのは、神格研究機関として独立することを宣言していた宗家とその他の有力な家系に属する者たちでした。
蒐集院の記録によれば、事件当日、彼らは日奉邸にいました。日奉家の人間の他には、七哲の指示で配置されていた監察役の按察司が複数名いました。以下に記された事件の概要は、その現場にいた人員の証言によって作成されたものです。
事件当日の16時頃、当時の日奉家の当主であった日奉梣は、合議のためと言って、邸内にいた血族全員を和館の1階大広間に集合させました。会議の様子は監察官4人が傍聴し、広間の外周には護衛のための按察司が数名配置されていました。
合議開始から一時間ほど経過した頃、広間から突然人声が聞こえなくなったことを不審に思った按察司が広間を直接覗いたところ、中には既に誰もいませんでした。このことは即座に報告され、現場の人員が日奉邸中を捜索しましたが、日奉家の人間及び傍聴していた監査官4人は発見されず、また日奉邸で管理されていたアノマリーを含むあらゆる重要な物品が消失していることが判明しました。
その後の一ヶ月間、日奉邸近辺を中心に、財団の職員も動員した大規模な捜索が行われましたが、失踪者の発見には至りませんでした。その後、当事件により行方不明となった[編集済]名は蒐集院から除名処分となり、現場にいた人員は蒐集院の罰則規定に従って懲戒されました。現場の人員に対しては財団主導の下で尋問が行われましたが、日奉家の失踪には一切関与していないと結論付けられました。
天國(Amakuni)派: 天國派は、正倉及び蒐集院の専属であった刀工の一派です。あらゆるアノマリーを用いて、超常的な武器(主に刀剣)を生成する技術を有していました。「天國」とは元々、伝説上の刀工である「天国」に由来する崇名で、正倉の名工に与えられていた称号でした。天國派の中枢である天國家は、この天国を先祖とするという見方もありますが、主流ではありません。比較的小規模な一門であり、全体の数が30人を超えた記録はありません。
彼らが生産する超常的な刀剣は、それらの使い手(差前家、応神家などが著名)が少なからず存在した蒐集院では需要がありましたが、極力超常的事象に頼らない方針をとっていた財団には明らかに不要なものでした。それを承知していた天國派は、財団では刀工としての活動を存続できないと判断し、倉人の財団への編入という動きには強く反発していました。
天國派は極一部を除き、奈良県の金倉(Kanagura)を拠点に活動していました。金倉は正倉によって秘密裏に設けられた鍛冶場であり、創設時から天國派が一元で管理していました。金倉は財団による接収の対象になっていた施設でした。
天國派の失踪が判明したのは、落陽事件当日の17時頃です。その日は、金倉の接収が正式に決定したことを通達するために、委員会の先遣隊が金倉を訪れていました。先遣隊が金倉に呼びかけたところ、何の応答もありませんでした。班員数名が金倉の中を確認すると、金倉の中はきちんと整っており、彼らが生成・管理していた刀剣もそこに在りました。しかしながら、天國派の人間の姿だけが何処にも在りませんでした。
その後の調査の結果、現場に争った形跡は無いこと、刀剣に使用された形跡が無いことなどが明らかになり、強制的に拉致された可能性は低い考えられました。しかし、自発的な失踪であったとしても、食料を持ちだした形跡が無かったり、彼らにとって大事であるはずの刀剣や鍛冶道具がそのまま残されていたりするなど、不自然な点が多く見られます。
結果として、天國派は偶然金倉を離れていた極一部の一員を除いて、その全員が消息不明となりました。蒐集院と財団は残った一員に対して尋問を行いましたが、失踪に関する情報を一切有していないと結論付けました。
胤鬼(Taneki)派: 胤鬼派は、正倉及び蒐集院において、重要な施設の建築や修理を専門としていた大工一門です。蒐集院の主要拠点である本院及び内院の建設業務を監督したことで知られています。起源は明確に寛永年間とされており、崇名を有する一門としては比較的新しい部類に入ります。蒐集院が抱える大工一門は他にも存在しますが、胤鬼派は超常的な建築技術の研究・実践を行うというほぼ唯一の特徴を有していました。独自の発展を遂げた彼らの流派は、主に胤鬼流と呼ばれました。一部の人員は蒐集院の解体を契機に、種木と姓を変えて一般社会に流入しています。
胤鬼派は日奉家と交流を持つ数少ない団体の1つで、日奉家の拠点である日奉邸や、その他の重要な施設の設計・建設を担任しました。両一族の交流は古くからあったようですが、その切欠についてはよく分かっていません。特筆すべき両一族の共通点としては、関連する文献に「鬼」がたびたび言及されることが挙げられます。
落陽事件当日、胤鬼派の人員は散り散りになっていました。財団が接収対象とした施設の中には、胤鬼派が設計を担任していたものが多く含まれており、その大半にはあらゆる超常的な技術が用いられていました。財団はその説明役として、胤鬼派の人員を数名ずつ各地の接収先遣隊に随伴させていました。
胤鬼派の失踪が確認されたのは、同日17時頃です。報告された失踪時の状況は先遣隊によって様々で、多くは「一瞬目を離した隙に消えた」という内容のものでしたが、「目の前で突然消えた」と報告する者もいました。
[もっと自然な消え方にしたい]
淵見(Huchimi)家: 淵見家は、正倉及び蒐集院において、卜占の研究と実践を職務とした一族です。「淵見」は彼らが行っていた独自の占術の名称でもあります。彼らの淵見の儀式は、決まって山口県にある洞窟「秋淵鐘乳穴13」内の地底湖で行われました。彼らはその地底湖の管理も行っていたため、古くから「淵守(Huchimori)」とも呼ばれていましたが、淵見家は不明な理由によりこれを蔑称と捉えていました。
谺山(Kayama)家: 谺山家は代々正倉及び蒐集院に仕えた植木を家業とする一族です。正倉及び蒐集院が管理していた隔離次元「延陽園」を拠点とし、あらゆる超常的な樹木の保護や造園を担任していました。
「谺山」は元々は崇名であり、平安時代の近江国栗太郡に存在した超常的な巨木を延陽園内に移植した実績により下賜されました。谺山家は代々この巨木の保護活動を主任務として担いました。
谺山家は、樹木崇拝的な考えを持つ日奉家とは古くから交流を持っていました。日奉家が非実体存在の封じ込めに用いた樹木の多くは、谺山家から取り寄せたものであり、日奉邸の庭園を作庭したのは谺山家の当主にあたる人物でした。
延陽園は、内部に置かれていた施設やアノマリーなども含め、財団に接収されることが決定していました。落陽事件当日は、委員会から派遣された接収先遣隊が延陽園を訪れ、谺山家から現地についての説明を受けていました。同日17時頃、接収先遣隊のメンバーから「延陽園が消失した」という旨の報告が財団と蒐集院になされました。その後の調査により、延陽園へのアクセスポイントであった湖から一切の異常性が失われていることが判明し、結果としてその内部にいた谺山家と接収先遣隊(外部に待機していた一部のメンバーを除く)は消息を絶ちました。彼らの安否は未だに不明のままです。アクセスポイントの消失の原因については明確にはなってはおらず、人為的なものである可能性も否定されていません。
日永田家の殺害及び書院の焼失: 落陽事件当日の17時40分頃、書院にて殺人放火事件が発生しました。
書院は、超常界隈に係わる記録物の収集・管理・編纂などの業務を行う蒐集院内部の機関、またはその本部施設で、創設時から日永田家によって統制されていました。書院は関係者以外の立ち入りが禁じられた隔離次元に設置されていました。
日永田家は、正倉及び蒐集院に籍を置いていた一族で、異常なまでに優れた記憶力と、血族の記憶を完全に継承する手段を有していることで知られていました。日永田家には、その他の特異な血筋を持つ一族と同様に、親近相姦の習慣が在りましたが、日奉家ほどの徹底したものではなく、外部の者との婚姻は多からず行われていました。そのためか、日永田家が持つ上記の特異性は、世代を重ねるごとに衰退していく傾向にあったようです。
情報災害的な脅威を取り扱う日奉家とは、事務的な交流があったようですが、それ以上の関係性があったと論じる関係者もいました。
[日永田家当主は、明確に人の手によって殺されている]
[日永田家当主の記憶の中にしかない情報が膨大にあった]
[放火は突然行われた]
[日永田家のほとんどは避難せずに記録物の焼失を防ぐために書院に残った→結果として現地にいた日永田家のほとんどが焼死した/記録物の多くは無事だった]
七哲の暗殺: 七哲の「獅子」「鳳凰」「[誰か]」が殺害された事件です。
[財団の仕業なのでは?みたいな陰謀論がささやかれた というより財団外ではその説が有力視されてる]
現在
日奉家は蒐集院の終焉と宗家木流の失踪により、かつての神格研究機関としての影響力を失ったと見做されてきました。失踪した宗家についてもその後の動向は現在までに確認されておらず、一時は要注意団体リストから除外することも検討されていました。
しかし、2016年現在、日奉家は超常に関する事件に度々言及されるようになり、再び財団の注意を集めています。2014年に収容されたSCP-745-JP/SCP-746-JPをはじめとして、日奉家に養子として迎え入れられた人間の数名が、あらゆる特異性を発現させていることは最も知られている事例です。更には蒐集院残党組/犀賀派/酩酊街などを含むGOIが、日奉の人間と接触したことを示唆する情報が複数発見されています。
これらの要素により、超常界隈における日奉家の影響力が不明な経緯で拡大し始めていると考えられています。これついては、行方不明であった日奉家の宗家が何らかの目的のために大きく動き出したためと考える職員も少なくありません。
特筆すべき人物
日奉梣(Isanagi Toneriko): (出生日: 1860年12月11日)
日奉家の宗家「木流」の家長。日奉家の中では最も優秀な妖術師/研儀官の1人であったとされ、隠秘学に関する豊富な知識量を有していました。七哲直属の隠秘学有識者としても活躍し、主に非実体存在の特異性解析の面で実績をあげていました。感情を表に出すことは無く、常に冷淡な言動と態度をとる人物であったとされています。「日奉家失踪事件」発生時の家長であった人物で、事件の首謀者と考える者も少なくありません。
彼は先見と洞察に長けた人物として知られています。日米戦争の発生と日本の敗戦、それに伴う蒐集院の終焉を予期し、それに備えた指揮を取っていました。その優れた先見性と慎重さのせいか、長期的な視点で物事を考える傾向があり、急進的な対応を求める七哲とは意見を対立させることが多かったようです。
彼も肉体改造による巨躯の持ち主で、その負荷のために下半身の感覚を半ば失った後は車椅子で生活をしていました。
日奉目薬木 (Isanagi Mitsubahana): (出生日: 1923年10月12日)
日奉の巫女で、「天津甕星14」を含む複数の高位神格の依代となった人物です。彼女は日奉の巫女という凄絶な宿命を笑って受け入れる芯の強さ、もしくは非常に楽観的な感性を持っていたと言われています。旺盛な好奇心を持ち、幼い行動が目立っていたと多くの関係者に論じられています。彼女は先天的に高い認知力を有しており、肉体改造に頼らずとも非実体存在の姿をはっきりと見ることができたそうです。
彼女はより優れた依代として機能するために複数の肉体改造を受け、異様な容貌を持っていましたが、人格的に明るく、不気味なほどに親しみやすい印象だったとも言われています。
妖術師としても優秀であり、高位神格である「アハシマ15」の封じ込めを主導したことでも知られています。
日奉沙羅 (Isanagi Shara): (出生日: 1923年10月12日)
審神者。蒐集院における審神者とは、神格と交信してその声(神意)を文章化する者のことを指します。
彼女は日奉目薬木の双子の姉で、生まれ持った認知抵抗値は妹よりも優れていましたが、その母親の手記によれば「不具の子」であったため日奉の巫女の任を与えられませんでした。彼女は多くの優秀な認知抵抗値を持つ子供を産んだ後、審神者の役割を与えられました。
余りにも多くの神意を聞き取った彼女は、最終的には正気を失い「拾った神の声を文にして吐き出す以外の人間的な機能を全て失った」とされています。彼女の残したそれは超常コミュニティでは「沙羅文書」と呼ばれ、情報災害キャリアとして危険視されると同時に、貴重な神格の資料として高い価値を見出されています。
「沙羅」という名前は、神話学的に重要な意味を持つ木「サラソウジュ」からとられたものとされており、出生時には日奉の巫女としての能力を期待されていたことが窺えます。
日奉七竈 (Isanagi Nanakamado): (出生日: 1879年4月6日)
妖術師。薄べったい大きな手を持つ痩せ細った老人だったとされています。忠誠意識の高い日奉の血族の中でも特に一族に絶対的な忠誠誓っていたことで知られる人物です。
彼は主に神格によるミーム感染の拡大を防ぐあらゆる任を遂行しました。日奉家が行ったミーム感染者の虐殺の幾つかは、彼の指揮によるものです。風評においては彼はサディストであったとされ、ミーム感染者を肉体的に痛めつけることに快楽を見出していたと言われています。
彼は「神に伍する血族によって死を迎えることは誉である」という考え方を持ち、殺人に躊躇をすることはありませんでした。
日奉八手 (Isanagi Yatsude): (出生日: 1915年9月7日)
研儀官及び渉外官。彼は妖術師としてはほぼ無能でしたが、非実体存在に関する先駆的研究を指揮し、若くして一等研儀官に成り上がった人物です。優れた指導者でもあり、多くの優秀な弟子を育てています。渉外官として世界各地の超常組織と頻繁に接触し、あらゆる神格に関する情報を収集していました。人格については「清潔で穏やかだった」「言葉少なく硬派」などと評されることが多いです。
彼は日奉家の異端の例としてよく挙げられます。彼は日奉家の手段を選ばないやり方や、蒐集院の超常を超常的手段で封じ込めるやり方に対し、度々懐疑的な態度を見せていました。また、彼は宗家の中では非常に珍しい親財団派の人間で、昭和時代後期に日本を収容体制活動下に収めようと動いていた財団に対して積極的に協力していました(財団への協力自体は七哲の命令でした)。
彼は蒐集院解体後、財団のスカウトに応じて非実体研究部門に置かれる予定でしたが、落陽事件発生当日に、東京都にある日奉家所有の別邸内で、斬殺体となって発見されました。遺体には防御創がほとんどなかったことから、何らかの理由で抵抗できない状態にあったと見られています。犯人は未だに判明していませんが、日奉家宗家の人間による口封じ殺人、もしくは裏切者の粛清であるとの説が支持されています。
日奉針槐 (Isanagi Akashia): (出生日: ████年██月██日)
日奉の巫女。彼女は神格「アーカーシャガルバ16」の依代に用いられた人物です。
彼女は日奉家の長い歴史の中でも数少ない「血の穢れた巫女」です。彼女は日奉家の父親と、日永田家の母親の間に生まれました。禁忌を犯した彼女の両親は処刑されましたが、彼女自身は稀有な巫女の素質を有していたために、当時の家長の判断によって生かされました。
彼女は宗家木流の人間としては珍しいことに、一般的と言える感性を持っていました。彼女は一族の思想を理解できず、何度も日奉邸からの脱走を試みたため、6歳の時に足の腱に釘を打たれました。
13歳の時に神格の依代として使われましたが、依代の機能を保つためのあらゆる処置の負担に耐え切ることができず、発狂の兆候を見せたため、当該神格もろともに焼却処分されました。
彼女の存在は、日奉家に到頭「血の穢れた巫女は役に立たない」といった偏見を根付かせました。
[読み手がここまで読んでくれるにはどうすればよいか]
神格存在は信仰を獲得するために高尚な概念に擬態することが多い。そのため、神格存在が何らかの既存の神の名で呼ばれていたとしても、その神そのものではない場合がほとんどである。
蒐集院解体時、財団は崇名を使用禁止にする命令を発令したことがある。命令の対象となった家系の大半はこれに反対し、財団に対して陳情書を提出するなどの活動を行った。人材の離散を招かねないと判断した財団は、結果的に使用禁止令を廃止した。
当該神格を崇敬していたコミュニティが、当該神格を軍神及び服わぬ神として解釈していたために、異例とされるほどの強力な特異性と、人類への明確な敵意を有していた。
当該神格の封じ込めに実働された人数は、依代に用いられた胎児を含めてわずか5人であった。