ヤンヤン
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アイテム番号: SCP-XXX-JP

オブジェクトクラス: Euclid

特別収容プロトコル: SCP-XXX-JP所有者による制作物への改変業務にはエージェント・P-MOによる「原作者」の援助、また今後のSCP-XXX-JP改変の引き継ぎのための技術向上が含まれており、サイト-8111の職員は「原作者」に対してSCP-XXX-JP改変以外での最低限の協力を行ってください。現在、9名のエージェントがSCP-XXX-JP所有者の捜索担当に割り当てられており、対象発見時は特別機動部隊99-9(編集は力なり)へと要請してください。「原作者」およびエージェント・P-MOはサイト-8111の低脅威度収容室にて収容され、サイト-8111からの外出を除く最低限の生活が保証されています。収容室前は2名のセキュリティー担当者が割り当てられ、交代制で管理されます。

説明: 現在、SCP-XXX-JPの現所有者の概要は判明していません。ですが財団は「原作者」の保有により、SCP-XXX-JPの抑制に成功しています。これらの「原作者」となり得る人間の決定条件は現在調査中ですが、エージェント・P-MOの証言から、著作物の主人公の実体の視認が可能な人間のみがこれに該当すると思われます。(現在、財団はエージェント・P-MOを含めた二名の「原作者」を保有しています。)財団職員の中でこれに該当しているのはエージェント・P-MOのみで、現在までエージェント・P-MO以外での「原作者」になり得る人物を育成する試みは成功していません。また、「原作者」以外の人間が著作物に何かしらの改変を行おうとした場合、ペンが持てない、持てたとしても不可視な障壁の出現などにより執筆が阻害されるという事象が発生しました。

SCP-XXX-JPは異常性を有する著作物の制作に関わる権利です。SCP-XXX-JPの異常性はSCP-XXX-JPを行使した上で著作物を作成することで発生します。SCP-XXX-JPを行使して著作物の作成を行った場合、その著作物の主人公と同様の実体(以下、SCP-XXX-JP-A)を出現させ、使役することが可能になります。なお、SCP-XXX-JP-Aは常に不可視な状態であり、現在その姿を視認できるのはエージェント・P-MOと「原作者」のみです。
現在財団が把握している、SCP-XXX-JPによって著作物に関わることが出来る権限は主にストーリーの作成および考案、SCP-XXX-JP-Aの行使、直接的な原稿の作成だと推測されます。SCP-XXX-JP所有者が原稿を作成した場合、それと同じ内容の物が「原作者」の手によっても作成されます。これらの作成の権限はSCP-XXX-JPの方が上位であると思われ、「原作者」はSCP-XXX-JP現所有者に自身の体を操作されるような形で制作を行います。著作物の原稿は、「原作者」によって制作されているもの以外では発見されていません。これらの一連の制作が行われた後、「原作者」は制作された原稿に対して改稿が出来ます。しかし、大幅なストーリーの変更、ストーリーの辻褄が合わなくなるような改変および指針の変更、著作物を終わらせるといった改稿は出来ません。
現在、SCP-XXX-JPを行使し制作されている物は「スペースドリラー翔」という漫画本で、世界各国の不特定多数の書店にて一冊のみ発見されます。現在、25冊の「スペースドリラー翔」が保管されており、発行元の会社などを調査しましたが詳細は不明なままです。
「スペースドリラー翔」の主な内容は、主人公の「カケル」が宇宙を冒険し、行く惑星行く惑星の問題を解決していくというSF冒険活劇となっています。主人公「カケル」の容姿は、鏡面状の球状ヘルメットを着用し、右手は巨大なドリルに置き換えられています。
著作物はそれぞれの巻で多種多様なストーリーが展開されており、そのストーリーの内容によってSCP-XXX-JP-Aの行動を決定することが出来ます。著作物内では主に、主人公の「カケル」、SCP-XXX-JP所有者をモチーフとした「カケル」の相棒、敵の「帝国」という3要素で構成されており、「カケル」の相棒が「カケル」と行動を共にする事でSCP-XXX-JP-Aの使役が可能になっていると思われます。また、SCP-XXX-JP-Aに攻撃的な行動を取らせる場合は、「帝国」という敵対する存在を描写することで目標を攻撃できる事が判明しています。

現在、「原作者」とSCP-XXX-JP所有者は敵対関係にあると思われ、SCP-XXX-JPの有する異常性の抑制のため、エージェント・P-MOの申請により「原作者」への支援が決定しています。

補遺1:当初、財団はSCP-XXX-JPによる影響はエージェント・P-MOが発症した幻覚症状の一種であると認識しており、エージェント・P-MO自身の独自の調査によりこの実態が判明しました。当時、エージェント・P-MOは自宅近くの書店に立ち寄っており、丁度、店内に設置されていたアメリカンコミックのコーナーを物色中でした。その時、「スペースドリラー翔」の漫画本を発見。対象を購入し内容を見た後、以下の症状を発症しました。

・SCP-XXX-JP-Aの視認
・成人男性(推定50代)の声(エージェント・P-MOに対して何かを訴えかけるような内容)
・事件、事故等の予測(幻聴により発生する事案が発覚すると供述)

これにより、エージェント・P-MOは回収した漫画本を財団に提出。しかし、Dクラス職員を起用した実験を行った所、エージェント・P-MOの証言する様な異常性は確認されず、財団はエージェント・P-MOの精神異常が原因と判断。彼をサイト内の精神病棟に収監しました。しかし、その後、サイト内での収容違反が発生。その時の混乱に乗じ、エージェント・P-MOはサイトを脱走しました。

補遺2: エージェント・P-MOが脱走した3年後、財団は彼をロシア中東の██████で発見しました。その時エージェント・P-MOに同伴していたのが柳沼 ███氏で、彼はエージェント・P-MOの数々の証言の裏付けや現象の再現などを実行し、SCP-XXX-JPの存在を証明しました。なお、エージェント・P-MOの捜索中、彼に取り付けていた発信機を頼りに機動部隊が捜索していたにも関わらず発見が遅れました。原因はエージェント・P-MOの「スペースドリラー翔」執筆によるSCP-XXX-JP-Aを利用した捜索の妨害によるものだと判明しています。現在、エージェント・P-MO以外で唯一著作物の改変を行える柳沼氏を財団は「原作者」と呼称し、サイト-8111にてエージェント・P-MOと共に保護しています。

「梁野博士。」

僕はやっとのことで彼を見つけた。

「……ん? ああ、『野々村』君。おはよう。」

博士を探す回るという行為。このサイトに配属され、彼と共に仕事をするようになってからもう何度目だろう。それもこれも、皆、この梁野武一という男の「癖」の所為だ。

今日も博士は廊下で寝転がっていた。この人はいつもそうであり、決まった場所に留まっていることがほぼ無い。その為、僕のように提出期日の迫っている書類の受け渡しを行う際に苦労する人間が後を絶たないのだ。その御蔭もあって、今じゃ配属したてのはずの僕の方が、他の職員よりもここいらの道に詳しくなってしまった。

「……おはようじゃないですよ。どれだけ探したと思ってるんですか。」

「ああ、それはそれは。」

この前だって別の職員が博士を探しまわり、挙句の果て、このサイト内で遭難してしまうという事件が起きたばかりだ。その職員が迷っていた時、当の本人がいた場所は会議室の机の下だった。この話を聞いた時、僕はその職員に大いに同情したのをはっきり覚えている。

ここへ来たばかりの頃は確かに驚いた。なにせエージェントに博士を紹介された時、案の定、彼は廊下で寝ていたのだ。しかも、丁度女性職員にセクハラまがいの行為をしている最中。彼は女性職員の足首を掴んだまま、引きずられて大爆笑していた。
自分の上司になるかもしれない人物のプロフィールぐらいは頭に入れていた。だから、僕は一時期は主任研究員にまでなった『立派な』職員だと言う勝手なイメージを持って、梁野博士の元へと向かったのだ。誰であろうと、そのような経歴を持っている人間だと知ったら、優秀な人間でかつ人格者であるという理由のない人物像を思い描いてしまうものだろう。しかし、結果はそれとは全く正反対だった。当然、僕はそのギャップに面食らってしまった。

「いや、ご苦労をかけたね。暇つぶしに本を読んでたらいつの間にか寝ちゃってたよ。」

「暇つぶしって……頼まれてた仕事はどうなったんですか? 」

僕は彼を探していた本来の目的を伝えたつつ、小脇に抱えている報告書の入ったファイルを持ち直した。

「頼まれた書類? ああ、うん。はいこれ。」

そう言って梁野博士は書類の束を取り出す。電話帳ほどもあるこのA4の束を何処にしまっていたのか、僕には皆目検討がつかない。僕はそれを受け取り、それぞれの書類をめくりつつ、じっくりと中身を確認する。

「……終わってますね。」

「終わっていたからこそ、暇だったのさ。」

そもそも、何で廊下でここまでの仕事ができるのか。自分のデスクで働いている自分がバカバカしくなる。こんなの納得できるわけがない。僕はそんな気持ちに加え、何か虚無感にも似た感覚を抱きつつ書類をファイルへとしまった。

だが、内心こんなことになるだろうと予想はしていたのだ。確かに、梁野博士はいつも廊下で作業していて、就寝の時ですらこのサイトの何処かで寝転がっている。それなのに、どういうわけか仕事だけはまともに終わらせるのだ。一体いつ、どこでそのような作業をしているのか。全く持って不思議であり、僕のような「ごく普通の」職員からしたら謎以外の何物でもない。このことに関して、理不尽と思っている職員は僕だけじゃないはずだ。以前、博士のこれらの行動を叱咤した主任研究員がいたが、博士の仕事の早さに勝てずに結果を残せなかったという事件以来何も言わなくなったのは記憶に新しい。

「……仕事が終わっているのなら別にいいです。でも博士にはちゃんとしたオフィスがあるじゃないですか。決まった場所にいてくれないと、正直探すのが面倒です。」

僕は博士に言った。これを言うのも何度目だろう。もう伝えたところで、彼が自分のオフィスで仕事をすることなんて無いと分かっているのに。本当はもっと、強い口調で声を大にした言葉をぶつけてやりたい。だが、そんなこと彼は何も気にしていないといった顔で聞くのだろう。本当に、何も気にしていない、何も感じていないという顔で。

「そう言われてもねえ。ここが一番落ち着くんだよ。」

博士は先程僕から言われた小言に対する返答をした。やはり予想通りの受け答えだった。その顔は、いつもと同じ穏やかな笑顔だ。

しかし、この人は本当に不思議だ。
僕がここに配属されて彼の下で働き出してから、彼が誰かを叱ったりだとか、誰かに対して何か文句を言ったりだとか、とにかく人に対して何か感情を爆発させた姿を一切見たことがないからだ。少し問題になるようなセクハラまがいの行為は良く話題には上がるが、彼が誰かに対して好意以外の何かをぶつけている姿など、断言出来るほどに一回も無い。そして、また不思議なのが逆に彼が誰かに何かをされたとしても、彼の中にある相手に対する好意の様なものが無くなることが決してないということだ。つまり、誰かを嫌いになるということが無い。コーヒーを服にこぼされた時も、悪口を言われた時も。大げさなことと思われるかもしれないが、彼はたとえ殺されそうになったとしても、その自分を殺そうとする相手にすら好意を抱いていると伝えるだろう。それほどまでに梁野博士という人物は、何かが人と違うのだ。

「……落ち着くとか、落ち着かないとか、関係無いでしょ。僕は困るって言ってるんです。」

僕は少し怒気の混じった口調で博士に文句を言った。しかし、相変わらず彼は何を言われても変わらない。

彼は僕と出会ってからずっと同じ調子で話し、同じ態度で接してきた。彼の僕に対する対応はあの時から全くと言っていいほど変わっていない。機械と触れ合っているとまではいかないが、声の調子、態度、身振り手振り、それらがまるで統一されているかのような印象を受ける。いや、僕だけじゃない。僕以外の人間とも、この彼の雰囲気は変わらない。まるで、器用に皆を平等に扱っているように。全てが平均化され、全てに好意を持っている。しかもその好意すらも平均化されていて、寸分の狂いもないのだ。そんな人間が本当にいるのだろうか。全ての人間と、完璧なまでに平均的に接することの出来る人間が。

ふと僕は足元に視線を移した。先程から博士が読んでいた文庫本がそこに置いてあったからだ。よくよく見れば、その本はとてもぼろぼろな状態で、紙が茶色に変色していた。一体いつから読まれているのか想像もできないほどにだ。表紙に印刷されたタイトルが目に入る。僕はそれを読んだ。

「……人間失格? 」

「ん? ああ、これか。これはね。」

博士の表情が少し物悲しげなものに変わる。この人がそういった感情を表に出すのを見たのは、僕が知るかぎりではこの時が初めてだ。

「私の半生のようなものだよ。」

「……半生? 」

彼は言った。人間失格が半生だと。 僕は頭に疑問符が浮かんだ。恐らく、あからさまに理解出来ていないといった風貌になっていただろう。そして、僕は少しだけその発言について考えてしまったのだ。
それほど壮絶な人生を生きていたのか、この人は。もしくは、登場人物と自分を重ねてる? 一体誰と。無難に行けば、恐らく主人公だろう。主人公と同じ人生。ふと、件の小説の大まかなあらすじを頭の中でなぞる。しかし、いや、今の博士からは想像できない。この人の人生。この人の人生?

「別に、この中の誰かに自分を当てはめているわけじゃないよ。」

「え。」

「ただ私は、これと共に生きて、これと共にここにやって来た。それだけ、私はこれと付き合い、それに費やすための時間が多かったというだけさ。」

まるで、僕の考えを見透かされたようだった。以前もこういったことがあった。僕が、心のなかでとどめた博士に対する悪態を、彼はそのまま口に出して再現してみせた事件だ。まるで、僕のことを、僕よりも知っているかのような物言いで、博士は言うのだ。その時だけ、僕は博士がまるで人間じゃないかのような錯覚に陥る。

「そうだ『野々村』君。」

「あ、はい。 」

僕は先程の思案を止め、唐突な呼び止めに何とか答えた。

「今日、新たに収容されるオブジェクトの一回目の実験が行われるんだ。君はここに来て間もない。だから、まだ収容手順の流れとかよく分かっていないだろう。それの見学がてらに連れてきてくれって主任が言ってたんだ。どうだろう。」

博士はゆっくりと起き上がり、僕の顔を見つめる。

「はい。分かりました。」

僕は二つ返事でその誘いに応えた。

「あ、それと最後に一つ。」

僕らが歩き出すと同時に、博士は再度口を開いた。彼が立ち止まると同時に、僕も立ち止まった。僕はそれに返事をする。僕の先を歩こうとしていた彼は、背を向けたまま話を続けた。

「今日の『子』は、私が見る限りとても怖がりだ。」

「……はい? 」

「気をつけ給え。わけが分からなくなって暴れだした子供ほど、扱いのむづかしい者はない。」

その時、僕はまだその言葉の真意が分かっていなかった。


「私は、『全ての他者』を愛しているんだ。」

僕は脇腹を押さえながら、痛む体に耐え悶絶していた。しかし、そんな僕の存在などには目もくれずに博士は喋り続けていた。

「だから、君のことも愛しているんだよ。」

サイト内の収容区画手前の廊下は辺り一面血の海となっていた。そこら中に人間だった物が散乱している。それらは既に肉片へと成り果て、一部ではゲル状に変異しているものまであった。視線を移せば、頭部と内臓が片隅にかためて置いてあるのが目に入り、ついこないだまで食堂で談笑していたはずの同僚たちの死体が山積みにされているのだ。暫く気絶していた僕は意識が鮮明になってはじめて、この光景を目の当たりにした。そして、その凄惨さからその場で吐き出してしまった。吐瀉物の中に交じる胃液の苦味が僕の舌を襲う。涙が滲み、ただ苦しいという感情だけが僕を支配していった。
護送中のオブジェクトが逃げ出すなんて。サイト内の事故。講習でも非常事態に備えてどう動けばいいかよく理解していたつもりだったが、ここまで凄まじいものだとは思いもしなかった。今日だけで、一体何人の人間が死んだのだろう。こんなにも簡単に人が死んでいくものなのか。誰にも気付かれない極秘施設の中で、こんな戦場が存在していたなんて。何人かの職員は生き残ってはいる。だが、ほぼ死にかけと言ったほうが正しいだろう。ある者は助けを呼ぶために悲痛な叫びを上げ、ある者は無くなってしまった両足を引きずったまま逃げようとしている。そのあまりの衝撃的な状況に、僕は思いの外、素直にその結果を受け入れることが出来てしまった。抗ったところで、どうにも出来ないという絶望が僕を飲み込んでいったのだ。
さきほど僕はそのオブジェクトによって壁に投げつけられた。その所為で今はこの血溜まりの上で腹ばいになって倒れている。体中に痛みが走り、まともに動くことすら出来ない。
死というものがすぐ目の前にある。生まれて初めての、本格的なそれを僕は感じた。

「君は凄い。これだけのことを、一瞬でやってのけたんだから。」

梁野博士が誰かと話している。僕は霞んでいる視界の中で、それを確かめた。その博士の声を頼りに、僕は何とか目と頭を動かした。

「……でも、これは君が好きでやったことなのかい? そうじゃなかったら君は本当に可愛そうな子だ。……ああ、かつて『他者』として認識していた者達のことも愛していたよ。だけどね? それも結局、死んでしまっていたらどうやっても愛することが出来ないみたいなんだ。……私は、まだそこまでには到達できていないらしい。悲しいね。私は。」

『他者』という言葉がとても引っかかった。博士の言うその言葉には、とてつもなく冷えきった物が根底にある。僕にはそう思えてならなかった。

この惨劇の中で、彼はどうしてこうも、いつもと変わらない平然とした態度で誰かと会話が出来るのだろう。そもそも、先程からしゃべっている内容自体が僕には理解し難いものだった。分からない。情報が少ない。いや、違う。分からないんじゃない。分かりたくないと言ったほうが正しいのかもしれない。そう思うと、僕のぼやけた頭でも嫌な想像ができてしまった。他に誰も居ないのなら、僕以外で会話を試みようとするものがいるとすれば、その答えはひとつだけだ。

「ん? やあ、『野々村』君。生きていたのか。私は嬉しいよ。」

博士が僕の存在に気がついた。その嬉しいという言葉が、どこと無く遠くを見て、恐らく僕のことを心配しているのではなく、そうすることが正解なのだという理由で行っているのだと感じた。

「……博士……一体、何を……。」

「彼女と話していたんだ。見給えよ、この光景を。彼女一人でやったんだ。どうだい? 凄いだろ。こんなことを一瞬でやってのけてしまうなんて。彼女は素晴らしい力を持っているよ。だけど、どうやらこれは彼女が望んだ結末ではなかったらしい。だから、私は彼女を慰めてあげていたんだ。だって可哀想じゃないか。……おっと、そうだ忘れていたよ。」

おもむろに博士は僕の業務用の携帯電話を僕の白衣の内ポケットから抜き取った。そして、先程の朗らかな口調とは打って変わって、とても真面目な言い方でこの惨劇についてを上層部に連絡した。周りでは、未だに阿鼻叫喚の声が鳴り響いている。

可哀想という博士の言葉が出てきた瞬間、僕は動けない体で心だけがざわついた。彼の口調は、本当に変わらない。いつもの日常を謳歌するときと全く同じなのだ。
僕の近くに博士が擦り寄り、倒れている僕を起こした。僕の背中を支え、壁が背もたれの代わりになるように座らせる。そして、僕は見た。博士と並んでいる、この惨状を創りだした当人を。そこにいる存在を明確な言葉で言い表すのにふさわしい言葉がある。それ以上でも、それ以下でもない。

「化け物かい? 」

博士が、まるで僕の心を見透かしたかのようにそう言った。まただ。また、この感じだ。僕のこの気持とは裏腹に、博士のその顔は本当に穏やかだった。

「確かにそうかもしれない。だけど、この子はただの臆病な『女の子』でしか無いんだよ。『野々村』君。それ以上でも、それ以下でもない。そうは思わないかい? だからこそ、彼女のこの行いを私は肯定してあげなくてはならない。じゃなきゃ、この子は自分の心を壊してしまう。君も、ただやったことを責められてるのは好きじゃないだろ? それと同じさ。そう、全く同じなのさ。」

「でも……こいつは、みんなを……。」

その瞬間、博士の表情が変わった。先程からの穏やかなものから一変し、そこには一切の感情の起伏も存在しないのだ。まさに鉄仮面だ。人間味というものが、消えて、無くなってしまったのだ。

「……『野々村』君。」

梁野博士が僕の顔に彼自身の顔を近づける。距離はほんの数センチ。彼は両手で僕の顔を掴み、ぐっと僕と自分自身との距離を縮める。

「私は、私の生涯を全くそれとは無縁なもので統一してしまった。だからこそ、私はそれを取り戻さなければならないんだ。私は皆を愛さなければならない。生きとし生けるものを、ずっと、心から愛し続けなかればならないんだ。私の『母』に注げなかった愛を、今こそ、私の中に創りださなければならないんだよ。じゃなきゃ、じゃなきゃ私は、きっと、恐ろしいモンスターになってしまう。やっと、やっとここまで来たんだ。私は、あそこにいる『彼女』も愛しているんだよ。『君』のことも愛しているんだよ……! だって、そうだろ……! 」

博士の目が、僕の目を見続ける。その目からは、何も感じられなかった。虚無。それが妥当だろう。空っぽなものが何求めたとしても、所詮は叶えられないのだ。僕は、その眼差しからそれを強く感じ取った。

いつの間にか周囲の声は止んでいた。というよりも、皆が梁野博士の言葉を聞いていたのだ。先程まで、殺戮の限りを尽くしていたそれも動きを止め、そこでは今の博士の悲痛な叫びだけがこだましていた。

博士は一旦僕から視線を離し、自身の周りを見回した。皆の視線が彼を見つめている。皆が皆、博士の先程からの文句に対して、恐らく僕と同じことを思っているのだろう。
博士は再度僕の方を見る。その顔は先ほどと変わって、いつものように笑っている。

「だから、私はここにいるんだよ。『野々村』君。 」

博士は最後にそう言って、何も言わなくなった。


機動部隊の介入により、事態は収拾された。僕と梁野博士は、この事件においての複数人いる内の生存者として保護された。そして、その後事件の概要について色々と聞かれた。当時の状況、オブジェクトはどのようにして人を襲ったのか。その他、なにか気が付いたことはなかったかなど。大体一時間ほどこれらの質問が続き、担当の職員の方と話して、僕は取調室を出た。扉を開けたそこには、僕と交代するのを待っていた梁野博士がいた。僕の出てきた取調室の向かいにあるソファーに彼は座っていた。

「終わったのかい? 」

博士が訊いてきた。僕は声を出さずに、小さく頷く。博士は、そうかと言って軽快に立ち上がり、僕とすれ違って部屋へと入っていった。横目で見たその顔は、相変わらずいつもと変わらない表情だった。
梁野博士に関しては、あくまで脱走したオブジェクトの活動を一時的に制御していたという名目で、ある意味今回の事件の功労者として扱われたらしい。だけど、僕はそうは思えない。あの人は、普通の人間とは違う。決定的な何かがずれている。あの、いつも温厚そうな顔に隠した物が、あの時、一気に漏れだしたんだ。僕にはそう思えて仕方がなかった。

「・・・だから、私は、ここにいる。」

博士が最後に言った言葉を復唱した。博士がここにいる理由。博士が、ここに自分の意志でいる理由。僕は少し放心的な動きをしながら、サイト内の廊下を歩いていた。一応の向かっている方向は僕のデスクのあるフロアへと続いてはいたものの、その足取りはおぼつかない。
僕は考えた。博士の言った言葉の意味を。

「私は全ての『他者』を愛している。」

僕はその言葉を思い出し、ふと後ろを振り返った。このサイトの、財団のとても無機質な廊下が延々と続いていた。

僕は思う。多分、あの人は、壊れているんだ。